夏のいたずら

いかがおすごしですか。

わたしは、踏んだり蹴ったりのまいにちで、みずから転びにいってみたり歩きだしたりとほとほとじぶんでもなにをしているんだかと呆れ返りますがどうやらいまはこうしていたいようなのです。

 

秋めいてきましたね、やはりわたしはどの季節も愛しています、梅雨はすこしばかりかぽろぽろとあたまから何かがこぼれ落ちていく音が聞こえてきますが。

 

きょう、公園で座っていると金木犀のかおりがしました、秋だなあなんて思う間もなく足をかきむしる、夏のいたずらに微笑ましくなりました。

 

いま、街の人々は眠っているのだろうか、はたまた昨夜のわたしのように泣きじゃくっているのだろうか、それとも愛するひとと笑いあっているだろうか、ただただ静けさとすずしい風の中できもちが良い夜です。

 

ねむりたくない夜と、ねむりたくなる昼を繰り返す、生きるということは迷うことなのかもしれないとこの頃感じています。

 

そういえばこの間船に乗る夢を見ました、いよいよ港の近くというところで実はこの船は核を運んでいて放射能が漏れ出したと告げられる、逃げ出して海の近くにある自宅と思われる家に隠れてみるも、皮膚はただれていきました。その時、母も一緒にいたことが判明して声にもならぬ叫びで「おかあさん死なないでください」と唱えました、母が死ぬことなど考えてもいませんでしたがいずれこの世からいなくなってしまう、明日死んでしまうかもしれないそういった中でわたしたちは生きている。

ひとは悲しいかな信じていないと生きてはいけない、当たり前のように信じていないとこころがこわれてしまう。しかし信じないことを良いとするわけでもない、けれど信じることと信じないことは同じくらいに幻想なのかもしれないと思いました、そうした綱渡りのような生をわたしたちは産まれてしまったからにはどうにも過ごしていかなければならないようです。

 

できればこんな話だけを人としていたい、そうもいかないからこそこうしてやりとりができることをうれしく思います。